目黒西リトルシニアは野球を愛する少年達の夢を育み、硬式野球を正しく指導し、体力向上とスポーツ精神を養成します。また、少年同士の友情と交歓の 場を与え、規則正しい明朗な少年を育成することを目的としています。野球を通じて心身の健全な育成をはかる場が目黒西リトルシニアです。
目黒西リトルシニアは、昭和43年リトルチームが創設され、昭和48年には、シニアチームがリトルの卒団生を対象に結成された、歴史と伝統 あるチームです。1998年には、リトルは30周年、シニアは25周年を迎えました。この間、野球技術の向上のみならず、子供達が野球を通じて、健全な身 体と豊かな心を持った社会人になって欲しいと願い活動し、多くの野球少年を送り出して参りました。
シニアチームは、平成4年には、元巨人軍の二宮至氏を監督に迎え、平成9年には、全国大会に出場し第3位に入賞しました。同年10月より、 二宮監督が中日ドラゴンスにコーチとして招聘された後を受けて、早稲田大学出身で、社会人野球の東芝、元阪急ブレーブス、阪神タイガースで活躍された、八 木茂氏を監督に迎えました。八木監督は、10年間シニアチームの指揮をとり平成19年7月に退任し後任には、元横浜で10年間外野手としてプレーした 若林憲一氏が監督に就任し退任後、現阪神タイガース平野選手の父、平野晃一氏を再度監督に迎え現在に至ります。
南多摩・調布入間を練習グランドとし、練習環境にも恵まれています。このように優れた監督コーチの教えを受けてリトルシニアを卒団した選手 達は、関東を中心に甲子園出場高校に進学しています。また、目黒西リーグの特徴は、特定のスポンサーを持たず、目黒西のOBや父母を中心に、沢山の理解あ るボランテイアの方々で運営されている事です。
昭和43年(1968)
吉岡厚太郎氏により選手22名で若葉リーグ結成グランド確保は、都立大学にお願いし、当時職員で野球部の選手であった平野氏(現シニア監督)、若井氏に指導を依頼。
昭和44年(1969)
品川リトルリーグに加入。
昭和45年(1970)
品川リトルリーグから分離独立、目黒リトルリーグ(現目黒東、大田リトルを含む)を設立。選手数50名程になる。
昭和46年(1971)
目黒東、大田両リーグ独立。若葉チームは目黒西リーグと改称。選手数100名を越える。
昭和47年(1972)
リトルチーム、関東大会準優勝。練習グランドも都立大学が使用できなくなり澁谷女子高校中の島グランドを借り、その後南多摩に空き地を確保、父兄総動員でグランド作りをした。
昭和48年(1973)
リトル卒業生を対象とした目黒西シニアリーグを結成、現在の目黒西少年硬式野球協会となる。当時10リーグそこそこのシニアリーグであったが、連盟に加盟し、リトル監督であった平野氏にシニア監督を依頼し、スタート。
昭和53年(1978)
目黒西リトル10周年記念。記念誌発行。名誉会長、下村泰氏(コロンビアトップ参議院議員)、会長、林秀一氏事務局長、吉岡厚太郎氏,シニア監督松岡昌俊氏(高松商業-早大-東映)。
昭和54年(1979)
五島育英会のご好意により、梶ケ谷グランドをほぼ専用グランドとして持つことができる。
昭和58年(1983)
リトル東京連盟第一回理事長杯優勝。
昭和63年(1988)
梶ケ谷グランド返還。会長、大久保豊氏。目黒西リトル20周年、シニア15周年記念。
平成元年(1989)
シニアチーム、東京中日スポーツ杯優勝。シニアチーム、関東大会夏季大会準優勝。
平成6年(1994)
第一回読売ジャイアンツ杯争奪(リトル・シニア)選手権大会開催。
平成7年(1995)
リトルチーム、全国選抜大会第3位入賞。東京連盟杯理事長杯優勝。
平成9年(1997)
第3回全国選抜リトルリーグ野球大会出場、第25回日本選手権大会(日本リトル・シニア 25周年記念大会)全国第3位、秋季関東大会出場
平成10年(1998)
目黒西リトル30周年、シニア25周年を迎え記念式典。シニアチーム夏季関東大会ベスト8(6位)、第26回全日本選手権大会出場、秋季関東大会出場
平成11年(1999)
関東連盟春季大会出場。城南ブロック春季大会優勝。関東連盟夏季大会(日本選手権代表決定戦)3回戦進出。東東京支部夏季大会(東京中日スポーツ争奪戦)準優勝。山梨ウイングカップシニア野球大会優勝。東東京支部秋季大会(関東大会代表決定戦)準優勝。関東連盟秋季大会(全国選抜選考大会)ベスト16。城南ブロック1年生大会優勝。
平成12年(2000)
泉佐野市長杯争奪戦野球大会3位。山梨ウイングカップシニア野球大会準優勝。東東京支部秋季大会(関東大会代表決定戦)優勝。関東連盟秋季大会(全国選抜選考大会)ベスト16。
平成13年(2001)
第7回全国選抜野球大会出場(大阪)。関東連盟夏季大会(日本選手権代表決定戦)3回戦進出。山梨ウイングカップシニア野球大会優勝。東東京支部秋季大会(関東大会代表決定戦)3位。関東連盟秋季大会(全国選抜選考大会)出場。目黒西卒団・平野恵一君プロ野球オリックス入団を祝う会(目黒雅叙園) 。
平成14年(2002)
リトルシニア委員会関東連盟東東京支部春季大会6位。城南ブロック春季大会準優勝。関東連盟夏季大会(日本選手権代表決定戦)初戦敗退。城南ブロック秋季大会優勝。東東京支部秋季大会優勝関東連盟秋季大会ベスト8。
平成15年(2003)
第9回全国選抜シニア野球大会出場(大阪)。関東連盟春季大会優勝。北海道連盟記念全国選抜大会出場。第31回全日本選手権大会ベスト8。COALACUP全日本メンバーとして出場。目黒西リトル35周年、シニア30周年記念祝賀会(東京プリンスホテル)。
平成16年(2004)
関東連盟夏季大会3位 第32回日本選手権出場 ジャイアンツカップ出場
平成17年(2005)
九州連盟創立25周年記念全国選抜野球大会出場
平成18年(2006)
磯野弘三氏 九代目会長に就任、関東連盟秋季大会出場、城南ブロック1年生秋季大会3位
平成19年(2007)
城南ブロック春季大会 優勝(Bチーム)、 城南ブロック秋季大会優勝
東東京支部秋季大会準優勝、 ミズノ杯関東連盟秋季大会ベスト16
伊豆の国市長杯友好親善大会準優勝、 城南ブロック1年生秋季大会準優勝
東東京支部1年生秋季大会出場
第1回 阿里山盃 出場(台湾嘉義縣立棒球場ほか)
平成20年(2008)
第14回全国選抜大会(大阪)ベスト16、 東東京支部春季大会準優勝
関東連盟春季大会ベスト16 、東東京支部夏季大会(東中杯)優勝
目黒西少年硬式野球協会は、平成10年12月リトル30周年シニア25周年を迎えました。昔を振り返りますと、創設時の色々な思い出が走馬灯のよう に頭の中を駆け巡ります。顧みますと、昭和43年頃、若葉堂スポーツに、リトルリーグについての一枚のパンフレットが届き、その内容に感動した私は、早速 12チームしかなかった関東連盟に問い合わせ、チーム作りに走りました。店のウインドウに選手募集の広告を張り出し、小学4、5年生約20名の選手を集 め、都立大学の職員で、野球部の選手であった、平野晃二さん(現目黒西シニア監督)、若井さんに指導をお願いして、品川リトルリーグの若葉チームとしてス タートしたのです。
このメンバーの中に、主将下村君(コロンビアトップさんの三男)、村井君、歌手若原一朗さんの子息等が加入していました。昭和44年当 時軟式チームの監督であった大山さん(現目黒東リーグ創設者)や故川辺さん(現大田リーグ創設者)を誘い、目黒リトルリーグを発足させました。平野監督や コーチのお陰で強力なチームに育ち、この年の夏、関東大会の準決勝で、調布リトルに1点差で惜敗。(調布の監督が現リトルリーグ理事長林さん)昭和45年 夏の大会には、念願の決勝戦に進みましたが、調布に大敗、惜しくも台湾遠征を逃しました。この試合はテレビ放映されるとあって、貸切バスで父兄総動員で応 援に出掛けたことを覚えています。
昭和46年には、クリッパーズ(現目黒東)、パワーズ(現大田)が独立し、若葉チームも選手数が100名を超えるようになり、目黒西 リーグとして再出発することになりました。昭和49年に、関東リトルシニアリーグは、林理事長を中心に新しい組織としてスタートし、現在に至っているわけ です。
目黒西リトル・シニアとも、関西連盟、東北連盟との交流試合で、遠征したり、相手チームを招待し、子供達を各家庭にホームステイさせた りもしました。昔を思い出しますと、あのことも、このこともときりがありませんので、創設時の思い出の一端を披露いたしました。 目黒西チームの活動は、 子供達が野球を通じ、健全な身体と豊かな心を持つ社会人になって欲しいと願い、沢山の理解あるボランティアの方々で運営されています。そのような中で、目 黒西硬式野球協会が30年の永きに渡り、活動を続けておられることに、深く敬意を表しますと共に、荻野茂男会長始め、関係者の皆様に深く感謝いたします。 これからも、40周年に向けて、目黒西チームの益々のご発展、ご活躍を祈念しております。