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コーチによるコラム「梅ヤン野球Eye」を随時掲載します

梅田ヤングスターズのコーチ陣は、野球愛にあふれる者ばかりです。キャリアもいろいろで、中にはスポーツ新聞の記者がいたり、「匠(たくみ)」がいたりします。いつまで続くか分かりませんが、読んでいただければ幸いです。
 

いやでも努力してみたら

梅ヤン野球Eye
 野球でも勉強でも「努力しなさい」とお父さんもお母さんも言う。いやいややっても、ムダな努力だ! と思うかもしれないが、いやでもやらないより、やってみないと意味がないのも努力なんだ。

 西武の松井稼頭央2軍監督と昔話をする機会があった。PL学園高校時代、投手だった松井監督は、西武には内野手としてドラフト指名された。肩の強さと足の速さが高く評価されたのだが、高校時代、内野手はやったことがない。練習は投手が中心で、打撃も走塁も後回しだった。

 プロに入ったら2軍の試合とはいえ、毎日ショートでスタメン出場した。それだけ期待されたのだが、できないことも多かった。守ってはエラーを連発。走って二塁に滑り込んだら、途中で止まってしまいベースに届かずタッチアウト! 「漫画みたいでしたよ」と大笑いで振り返る。

 でも、2年目には1軍入りして、初ヒットも打った。さぞや、すごい努力をしたのだろうと思ったら「努力したというか、練習をやらされましたよ。とにかく覚えなくちゃいけないことがいっぱいあったから」と、苦笑いで振り返った。

 3年目、スイッチヒッターに挑戦した。もともと右打ちだったが、めっぽう速い足を生かすなら、一塁ベースに近い左打席が有利だった。コーチの命令だから、やるしかない。慣れない左打席で何百回もスイングする。得意な右打席も練習するのだが、当然、左打席の方が回数が多かっただろう。「ところがですね、これが不思議なんですけど、左を500回振ったら、右も500回振らないと、右が打てなくなる。バランスなんですかねえ。だから、左右同じ数を振るんです」。自然に他の打者より2倍以上振った。上達も早い。スイッチ挑戦2年目には打率3割をマーク、6年目には3割、30本塁打、30盗塁のトリプルスリーを達成した。日米通算安打は2705本。日本最高のスイッチヒッターだ。

 確かに人並み外れた能力があった。本人はそのことより、大切なことを持っていたと口にした。「自分からやったとしても、やらされたとしても、練習をやり遂げた土台を持っていたのは間違いないかな」。
 土台とは体力であり気力だ。「やりなさい」「やってみろ」と言われたら、やってみないと始まらない。【コーチK】
※写真は楽天時代の松井稼頭央選手と梅ヤン太一選手(3歳ごろ)

2020年ゴールデンウィークを忘れないために(2020/04/26)

梅ヤン野球Eye
まさかこんなにみんなと会えない日々が続くとは思っていなかった。今ではもっと続くのではと心配しています。

それでも2020年、令和2年の春は今しかない。2度とこんなことがないことを祈りながら、今しかできないことをやってみないか。

活動自粛が増えて以来、たくさんのスポーツマンが、インターネットを通じてメッセージを発信しています。たくさんの選手が同じことを言っています。

「今しかできないこと、家でできることをやってみましょう!」

体力をつけるトレーニングや、体をやわらかくするためのストレッチ体操を薦める選手が多いです。技術を練習するのも大事だけど、それを支える体力が必要なんだね。特に体のやわらかさは、子どものうちに身につけていかないと、おっさんやおばさんになったら、手遅れかもしれないから。

運動だけでなく、読書を薦める人も多い。今は本屋さんに買いに行くのも難しいけど、小さいころに読んだ本でもいいから、読み直してほしい。初めて読んだ時には気付かなかった、意味やメッセージがこめられているかもしれない。

新聞でもいい。新聞社に勤めているからじゃないけど、僕は小学4年生のころからスポーツ新聞を読んで、プロ野球、高校野球情報と漢字を覚えていった。

漫画でもいい。僕は「ドカベン」で野球と友情を覚えた。「はじめの一歩」には勇気をもらった。

ゲームはほっといてもやるだろうけど、原田コーチが言っていたのは賛成だ。「野球ゲームをやってみよう」。ボールカウント、アウトカウントを確認しながら、次は何投げる? どこに送球する? など考えてやるとますます楽しい。打撃フォームだって、いいスイングをしている。空振りして転んじゃうスイングじゃ、ヒットは打てないし。ただし、ゲームの時間は2時間までにしようぜ。目が悪くなったら取り戻せない。

休校になって2カ月近くになって、今さらのメッセージだけど、今からでも始めたいことはいっぱいある。2020年ゴールデンウィークは2度とないから。残念ながら,コーチの僕たちは楽しい思い出を作ってあげられない。だから、自分で少しでも胸が張れる心と体を作って欲しい。
【コーチK】 

甲子園のブルペンでエースとともに戦った梅ヤンOB

梅ヤン野球Eye
 7回裏、興南の5番打者が四球を選び2死満塁とすると、三塁側ブルペンで投球練習を続けていたサウスポーが初めて捕手を座らせた。力を込めた直球が、低めに構えた捕手のミットを強く鳴らす。出番は近いぞ…。
                 ◆  ◆ ◆ ◆ ◆
 13年ぶりに甲子園を訪れた。土浦日大が陣取る三塁側内野席の上段に家族4人で座った。上の方が全体がよく見えるのが理由だが、背番号10番がブルペンに向かうと、いてもたってもいられない。5回裏、5年前まで梅田ヤングスターズの一員だった荒井勇人投手(2年)が、投球練習を開始した。ブルペン近くの最前列に空席をみつけて駆け下りた。普段はみせない父親の機敏な動きに、甲子園名物「かちわり」をすすっていた息子たちの方が冷静だ。「試合中だから、迷惑だよ!」といいながら、それでもやっぱり、追いかけてきた。
 荒井君とは私も息子たちも面識はない。プレーするのも初めて見る。しかし、同じアイボリーに「Y」のユニホームに袖を通した大先輩だ。超一方的親近感はマックスに。それにしても、アルプスに陣取っているだろう荒井君のご家族より、はるかに近い場所で彼をみつめていいのだろうか。と、今となっては思う。
 5回裏は2点リードを許し、6回表に1点を返したが、すぐに1点返された。その間、荒井君は2度ブルペンで肩を慣らしてはベンチに戻った。そして、冒頭に触れた7回裏2死満塁。3度目の投球練習となった荒井君はピッチを上げながら、マウンドのエース富田卓投手(3年)に視線を送った。これ以上、失点を許せない場面を富田君は遊ゴロで切り抜けた。荒井君がポンッとグラブをたたいて喜んだ。そして、ベンチに戻らず、そのまま投球練習を続けた。
 ぐっとくる場面だった。打たれれば、彼に登板機会が巡ってきただろう。そんなことに期待する、勝手な思惑など立ち入れないほど、彼らは勝利を求めていた。聞けば、荒井君と富田君は同じ下宿の同部屋で暮らしているという。マウンドとブルペンに分かれても、仲のいい2人はともに戦っていたのだと思う。
 荒井君の投球練習はますます熱を帯び、構えたミットがまったく動かないほど制球力のある直球や変化球を投げ込んでいた。無死満塁の好機を逃して迎えた8回裏、富田君の球威が急に落ちた。あっという間に失点して、ベンチは2番手に3年生の左腕を選んだが、連打を浴びて点差が広がった。荒井君が4度目の投球練習を開始すると、盗塁死で8回が終わった。
 土浦日大は2―6で敗れた。出番のなかった荒井君だが、ブルペンでともに戦い、投球内容は甲子園には富田君1人では来れなかったことを十分に想像させた。甲子園に貴重な一歩を残したが、だからこそ、ブルペンから30㍍ほど先のマウンドへのあこがれはますます募ったはずだ。泣きじゃくり、甲子園の土を集める3年生の輪に、2年生の荒井君は加わらなかった。
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 梅田ヤングスターズの選手も試合中にいつも口にする応援歌が、ブラスバンドの大音響で次々演奏され、白球の行方にスタンドがどよめく。まっさらなユニホームが次々泥と汗にまみれても、うつむくことのない球児たち。西日の暑さより、場内の熱気が明らかに上回った夕暮れに、小学3年生の次男がつぶやいた。
 「甲子園に出たいなあ」。
 長蛇の列ができたグッズコーナーに立ち寄らなくても、最高のおみやげを手に入れた。
【コーチK】
(写真は7回裏、三塁側ブルペンからマウンドの円陣をみつめる荒井投手)

稼頭央の思い出「まっちゃんは野球があるからほどほどにな」(2018/06/19)

 
梅ヤン野球Eye
 今年15年ぶりに埼玉西武ライオンズに復帰した松井稼頭央外野手(43)。コーチを兼任しながら、開幕から1軍ベンチに入っている。打線は好調で、特に外野手の選手層は厚く、出場機会はほとんどない。それでも、試合前に連日汗を流している。ある外野手が話していた。「ストイックに練習する稼頭央さんの姿こそ、今のライオンズに必要だったんだと思います」。後輩たちのお手本として、開幕から首位を走るチームを支えている。

 昨年暮れ、楽天から引退してコーチ就任を打診された。2013年の楽天日本一の功労者だけに、将来の監督への道が用意された。しかし、現役続行にこだわり退団。コーチ兼任ながら辻監督から「まずは選手として好きなようにやってほしい」と期待された西武に復帰して、25年目のシーズンを送っている。

 選手にこだわり続けるが、過去に2回、チームをやめようとしたこともある。小学3年生の時、東大阪市のボーイズリーグ・若江ジャイアンツに入部直後、球拾いと声だしだけの練習だったから。2度目は同じチームの中学部に昇格した時で、やはり見学や雑用や球拾いばかりに耐えられず、バスケットボール部に移った。指導者の熱心な説得もあったが、結局チームに戻ったのは、「誰よりも野球がうまくなりたかったからね」という野球の魅力や情熱だった。

 野球チーム以外にも大切な友達がいた。中学時代、練習を終えると、銭湯に集合して仲間と楽しく過ごした。時々、羽目を外しすぎることもあった。一歩間違えれば、大けがをしたり、問題を起こしていたかもしれない。そんな時は必ず仲間が声をかけてくれた。「まっちゃん(松井)は野球があるからほどほどにな」。野球をやらない仲間たちだったが、稼頭央の飛び抜けた才能は本人以上に気付いていた。16年前、初めてトリプルスリー(3割30本塁打30盗塁)を決定的にした夜、しみじみ振り返った。「ホンマ、あのころの友達がいなかったら、野球は続けられなかったかもね」。

 情熱を持ち、大切な友との出会いがあり、努力を重ねる。長く続けられるのには理由がある。
 
 松井稼頭央は今日もグラウンドに立つ。
 
 グラウンドには今日も野球がある。【コーチK】

大谷翔平の合宿に潜入当時の衝撃(2018/6/15)

梅ヤン野球Eye!
 たまには若い選手の話題にも触れてみたい。エンゼルス大谷翔平選手(23)を1度だけ間近で見たことがある。静岡支局に勤務していた2012年3月。大谷がいた岩手・花巻東がセンバツ出場を前に、静岡・草薙球場で合宿を行った。帯同していた東北総局の後輩記者を通じて許可をもらい、練習中のベンチに潜り込んだ。目の前に大谷がいた。

 「ほそっ」

 第一印象だ。2年生の夏の甲子園で150㌔をマークしたものの、成長期にみられる足の痛み(いわゆる成長通)のため、秋の大会はほとんど投げていないし、鍛えてもいない。練習着のパンツが足のラインにフィットしていたから、余計に細く見えた。

 試合形式のシート打撃が始まった。第1球、左打席の大谷は見送る…と思ったタイミングからスイングを繰り出し、センター前にライナーで運んだ。スイングが速いから可能なのだろうが、ずいぶんと体の近くまでボールを引きつけるのだなと驚いた。

 第2打席。今度はレストスタンドに大飛球で運んだ。草薙球場はレフトから強い風が吹くことが多く、左打者がレフトに本塁打するのが難しいとされていたが、いとも簡単に放り込んだ。これも懐深くまでボールを呼び込んでから痛打した。流し打ちというより、レフト方向に「引っ張った」「ぶち込んだ」「たたき込んだ」という印象が強かった。メジャー移籍後の本塁打の多くが、センターから左方向なのだが、その傾向は高校時代からみられていた。

 それにしても、メジャー開幕から2カ月半で右ひじを故障したのは残念だ。生活の楽しみの一つを奪われたような気がするし、米国でも「今年のメジャーリーグ最悪のニュース」と報じられた。それぐらい、打って、投げての彼の活躍は、野球選手の究極の夢を実現していた。

 もっとも、「ほそっ」と驚いたあの日からまだ6年しかたっていない。たくましくなったとはいえ、肉体的にはまだまだ成長の途上なのだろう。たぐいまれな腕の振りやスイングスピードに加え、メジャーの舞台はこれまで以上の興奮も呼ぶ。経験したことのない負荷が、故障につながったのかもしれない。

 そう考えると、目の前の選手たちも技術的、体力的に伸び盛りだったり、大活躍した時ほど、指導者の目配り気配りが大切だ。大谷のように、子どもたちに野球ができない日々が来ないようにするためにも。【コーチK】

稲尾様のコントロール(2018年5月23日)

梅ヤン野球Eye
 キャッチボール中やブルペンの投球練習中に、選手の軸足から相手に向けて、ラインを引くことがある。「神様、仏様、稲尾様」の稲尾和久さんの教えを参考にさせてもらっている。

 スポーツ新聞の野球担当記者の仕事に、専属の野球評論家に話を聞き、解説記事を書くことがある。偉大な選手や監督ばかりなので、やりがいもあったし、自分の勉強にもなった。

 中でも稲尾さんの話は分かりやすかった。1950年代から60年代の終わりにかけて、西鉄ライオンズで活躍した右腕で、61年に日本記録の42勝を挙げるなど通算276勝の大投手だ。58年の日本シリーズでは巨人に3連敗後、4連投して3完投して逆転日本一となった。「神様、仏様、稲尾様」はこの時に生まれた言葉だ。私もまだ生まれていない。昭和の伝説だ。

 伝説の投手というと、剛速球をイメージしがちだが、稲尾さんはコントロールが抜群だった。3599回を投げて与四球719個だから1試合にすると1、2個しか出さない計算だ。

 コントロールについて聞いたのは99年ごろだった。「コントロールはどこでつけつるんですか?」の私の問いに、「内外角は踏み出した左足の向き、高低は左膝を曲げる角度」と明確に答えてくれた。

 稲尾さん 軸足(右)から投げたいコースに向かって、1本の細い線をイメージするんだよ。そこに向かって足を下ろす。内外角でほんの少し踏み出す位置を変えているんだけど、18・44㍍先のホームにボールが着くころにはベースの幅の差になるわけだ。高低は高めは左ひざを浅く、低めは深く曲げる。コースも高さも打者から見ればフォームの違いが分からないけど、こっちははっきり投げ分けてたよ。

 稲尾さんはこの「決めごと」をみつけたのは、大分・別府緑丘高から西鉄に入団した最初のキャンプだった。全国的に無名だったルーキーに与えられたのは、打撃投手だった。打席に立つのは中西太や豊田泰光といったこれも伝説に残る強打者を相手に連日1時間投げ続けた。

 稲尾さん 1分間に6球ぐらい投げる。そのうち4球は打ちやすい球を投げて、残りの2球は打たせないようにぎりぎりに投げる。つまり1時間360球のうち、120球は自分の練習をしてたわけだな。

 1球、1球、目的を持った練習は新人年から実を結び20勝を挙げた。

 コントロールについては、いろんな投手に聞いた。例えば西武で活躍した東尾修さんは「右ひじの送り」だとした。右ひじから腕を振っていく時の、わずかな角度の違いで投げ分けるという。逆に「感覚ですね」と答える投手も複数いた。確かに稲尾さんも東尾さんも、自分にしか分からない「感覚」なのだろうが、はっきり言葉にできる「違い」があった。あいまいな「感覚派」ほど、コントロールもあいまいだった。

 稲尾さんは11年前に70歳で亡くなった。今、グラウンドに線を引く。「稲尾様」にはなれないけれど、ヒントだけでも伝えたいと思っている。【コーチK】

野茂の教えは「偉そうに、胸を張れ」(2018年5月14日)

梅ヤン野球Eye

 ゴールデンウイーク、3世代のチームが合計11試合を行った。雨が降ったのは1日だけ。晴天の中、投手をやりくりするため、何人かを初めてマウンドに送った。この中から、新たなエースが誕生することを期待しながら。

 

 31歳で野球記者になって7年間、1000以上の試合を取材した中で、もっとも試合後の取材が難しく、刺激的だったのは野茂英雄投手だった。レッドソックス、ドジャース在籍当時の取材だったが、とにかく口数が少ない。考え抜いて質問しても「そうですね」「違います」などの一言で終わってしまう。

 

 彼の野球観が聞けた貴重な機会だったのは、シーズン中に行った少年野球教室だった。投手を希望する子どもたちに教えたのは主に2点だった。

 

  ❶マウンドでは胸を張って堂々と。偉そうにして投げよう。

  ❷ 足を高く上げてネットを突き破る勢いで投げよう。

 

 付け加えるとしたら、「僕のまねはしないように。基本は大事にしよう」だった。トルネードは誰にでもできる投法ではないことは、自分でも分かっているようだ。

 

  ❶を意識したのは社会人野球・新日鉄堺の先輩の教えだった。大事な場面で救援失敗して、落ち込んだ。野球も私生活もうまくいかないどん底の新人時代で、先輩から呼び出された。そこで「相手チームに向かう最初の選手がピッチャーだから、偉そうに胸を張れ」と激励された。以来、マウンド上ではどんな時も胸を張った。野球への取り組みも変わり、高校時代まで無名だった野茂が頭角を現すきっかけになった。

 

 さらにさかのぼって、中学時代は、1年生の終わりごろに、球が速いから投手をやってみろと勧められた。投手はやりたかったのだが、いざマウンドに上がると恥ずかしかったと振り返るほど、消極的な子どもだったという。

 

 だからだろう。 ❶の「偉そうにして」も 、❷も「ネットを突き破る勢いで」も、何より自分を奮い立たせる言葉だ。いざ、マウンドに上がれば、技術よりも自分を信じること。メジャーでやってみたい。その思いを信じて、アメリカに渡った野茂らしい教えだ。

 

 口数の少ない野茂だったが、数カ月取材後、こちらが帰国のためあいさつに訪れると、必ずすっと立ち上がった。「お疲れさまでした」。小さく頭を下げるだけなのだが、ジーンと来る。こちらは、日本に帰るけど、野茂はアメリカで戦い続ける。そう思うと、苦労させられたのも忘れてしまう。

 

 そういえば人づてに、彼が私の記事について「愛がある」と話していたと聞いたことがある。どの記事かは分からないが、そういうことは堂々、直接言わないのも野茂らしいのか。思わず照れくさくなってしまう。【コーチK】

松坂がイチローにかみついた(2018年5月7日)

梅ヤン野球Eye

 松坂大輔に感じていた物足りなさ…。それは、どこか自分との戦いに心を奪われている姿だった。

 直球もスライダーもチェンジアップも、ずばぬけたレベルを誇ったことはデビュー直後に周囲も、自分も感じ取ったのだと思う。だから…、これはあくまでも取材当時、そして、1人の野球ファンとして彼をみつめるようになってからの印象なのだが、戦うのは打者ではなく自分自身に向いていた。

 

 例えば理想的なフォームや、新しい変化球を追い求めた。打者を打ち取るよりも、自分を納得させる満足度を求めているように見えた。

 

 メジャー移籍後は強打者たちに、真っ向立ち向かうと期待した。しかし、硬いマウンドや滑りやすいボールに神経を使い、さらには、故障と戦う日々が待ち受けていた。

 

 最も松坂のすごみを目の当たりにしたのは、デビューした1999年5月のオリックス戦、初対戦のイチローから3三振を奪った投球だった。試合後、リードした中嶋捕手がこっそり打ち明けた。「ひやひやだよ。全部投げミスだったから」。実は三振を奪った決め球は、コースが違ったりスライダーが抜けたりと、完璧ではなかったという。

 

 では何がすごかったのか。当時、本塁後方の記者席には注目の対決を見届けようと、オリックスの投手が数人集まっていた。第1打席、松坂が振りかぶった瞬間、驚きの声が上がった。バットを高々と掲げたイチローが、まだ構えていなかったからだ。年下投手は先輩や一流打者の間合いに合わせるのが暗黙の了解なのだが、勝負を待ち切れない闘犬のように、イチローにかみついていった。

 

 2カ月後、オールスター戦の全パのベンチで、松坂はイチローと同席した。談笑する様子は、本当に楽しそうだった。不思議なもので、2人の対決から急速にすごみが消えていった。最近では、侍ジャパンの選手同士は内角攻めを避けているように見えるといった解説がある。投手と打者の距離が近すぎるのも、考えものなのは間違いないと思っている。そして、最高の打者との緊迫感が薄れた松坂は、打者との勝負よりも理想の投球を追い求めるようになった。

 

 前回のコラムでも触れた満塁の場面での「甘く入って何点も取られるより、押し出しで1点でもいいかと」の覚悟に、涙腺がゆるむ。何千日も白星から見放された松坂が、目の前の1勝にこだわった。あらゆる経験と知識に「絶対に勝ちたい」という気迫が加わって、打者に向かっていった。なりふり構わず白星を奪うのが、投手の理想だろう。

 

 このゴールデンウイーク、各年代の子どもたちとともに練習試合を含め、11試合を戦った。白星どころか、1つのストライクをとることに苦しむ投手に、「打者をしっかり見なさい。打者に向かって行こう」と声をかけた。技術よりも理想よりも大切なことがある。マウンドとはそんな場所なのだと思う。

 そう教えてくれた、もう1人の投手がいる。機会があればあらためて、あのトルネードの言葉を振り返ってみたい。 【コーチK】

私と松坂大輔とピラフとリベンジと(2018年5月1日)

梅ヤン野球Eye

 中日松坂大輔投手(37)が12年ぶりに白星を挙げた。メジャーを含めてもメッツ時代以来4年ぶり。わが家の小学3、4年生の息子たちは、松坂が西武の投手だったことは知らなかった。横浜高校で春夏連覇したことも、レッドソックスで世界一になったことも、当然のように知らなかった。

 

 私の生活の中心に松坂がいた時期がある。私がプロ野球の取材記者として西武担当となったのは1998年11月。同じ月の下旬、松坂が西武にドラフト1位指名された。

 

 以来、どんなささいなことでも松坂のネタが1面だった。自主トレでキャッチボールしただけでも大騒ぎ。とにかくすごいボールなのだが、どうやって表現しようかと頭を悩ませていたら、キャッチボール相手の新人投手のグラブのヒモが切れた。グラブも破る剛球とはたまらなく書きやすい。一通り取材を終えると、相手の新人投手に「よくやった、えらい!」と、礼を言った。

 

 キャンプ中、腹痛で練習を休んだのに、宿舎の喫茶店でピラフを食べていたのも1面で書いた。「カレーは刺激が強いから、せめてピラフにしたら」と勧めたのは私だった。すると翌日も腹痛は癒えず、練習は不参加。「何で止めなかったのか」と、私が東尾修監督にしかられた。若いお父さんやお母さんに説明するなら、石田純一の妻東尾理子のお父さんと言ったら、分かりやすいのか。

 

 とにかく、入団直後を比べたら、田中マー君も斎藤佑樹も大谷翔平も清宮幸太郞も、松坂の注目度にはかなわなかった。好投しても打たれても、試合後は100人単位の記者に囲まれた。オープン戦の巨人戦で初めてめった打ちされた。松井秀喜や現監督の高橋由伸が主軸の時代だった。降板後、あまりに淡々と試合を振り返るものだから、つい聞いてみた。「悔しくないのか?」

 

 松坂 そりゃ、悔しいっすよ。当たり前です。いつかリベンジしたいです。できればオープン戦じゃなくて、別のところで。

 

 その年の流行語大賞にも選ばれた「リベンジ」が初めて飛び出した瞬間だった。それを引き出した記者が私だったと話しても、息子たちは何のことやら分かるはずもない。ひそかな自慢なのに…。悔しいっす。いつかリベンジしてやる!

 

 オリックスのイチローから初対決で3三振を奪った日のお立ち台で「自信が確信に変わりました」と言ったのも名言だった。その試合も1面だったが、うまく原稿が書けず、デスクから3度書き直しを命じられた上、最後はデスクが大幅に書き直した。記者生活で最大の悔しさも、松坂に教わった。そんな日々が、3年ほど続いた。

 

 12年ぶりに上がったお立ち台。松坂は3点リードの5回1死満塁の場面で「甘く入って何点も取られるより、押し出しで1点でもいいかと」と、力を込めたことを明かした。打たれるより、押し出しを覚悟する投手など聞いたことがない。やはり、普通じゃない。相変わらずと思いながら、ある時期から松坂に感じていた物足りなさが消えていった。そのことは、いつか、あらためて触れてみたい。【コーチK】